予科練から兄帰る 「生きて帰って申し訳ありません」

予科練から兄帰る

終戦直後の昭和20年8月、父の転勤で日本海に面した都市に移り住んだばかりの我が家に、茨城県霞ケ浦予科練で、戦闘機乗りとしての訓練を受けていた兄から、帰宅する旨連絡が入りました。敗戦に伴って、訓練半ばで予科練も消滅したのです。昭和16年生まれの私より、一回り年長の兄です。

連絡を受けて、父が駅まで迎えに行くことになりました。兄が予科練在籍中の転居だったため、兄には、現住所の土地勘がないからです。列車到着は夜。駅までの距離は4キロ。駅と住まいとの両方から歩を進めて、中ほどで落ち合う手筈だったようです。ほとんど大通り沿いの道ですが、電力不足で,通りは真っ暗闇です。車の往来もありません。闇の中で行き違いにならぬよう、父は頃合いを見て、大声で兄の名を呼びながら歩いたそうです。突然、暗闇の中から「ハイツ!」という声とともに兄が駆け寄り、挙手の礼をして放った言葉が、「生きて帰って申し訳ありません」。父が何と答えたかは聞いていません。面食らったことは間違いないようです。父がこの話を私にしたのは、私が社会人になってからでした。それなりの分別がついてからということだったのでしょうか。終戦直後は、“特攻崩れ”などと呼ばれ、荒れる帰還兵がいたそうで、そのあたりを配慮してのことだと思います。

帰還した兄を私は、優しい、面白いお兄ちゃんとしか思っていませんでしたが、兄はそれなりの葛藤を経て(たぶん)、学校へ入り直して,高校の体育教師になりました。もともと運動能力が高く、野球をやっていたのですが、赴任先の学校によってはハンドボールの指導もつとめ、それぞれ全国大会に出場を果たしました。兄はすでに亡くなりましたが、葬儀にはかつての教え子たちが多数集まり、涙する姿もあったといいます。かつて、死を目指して訓練に明け暮れていたことを思えば、考えられないエンディングです。その一方で、無念にも戦火の中で消えた命に、思いを致さずにはいられません。

浅慮、私利私欲、匹夫の勇などで再び戦火をもたらすことのないよう、賢明な政を望まないではいられません。

                              80翁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うかうか生きて80年

4歳児が見たB29撃墜

昭和16年(1941年)7月の生まれです。今年の夏80歳になります。生まれた年の12月8日、日本軍は「ニイタカヤマノボレ」をゴーサインに真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入しました。私には、何の思想信条もありませんが、この、自らの生まれ年最大の出来事を看板に掲げて、人もすなるブログとやらを、してみんとて始めようかと思うわけです。その他大勢の中に埋もれた人生ではありますが、終戦後の混乱から「経済大国」、そしてコロナ下の今に至る流れの中で心に残る事柄を、あれこれ記してみたいと思うのです。個人的な出来事や思いばかりになりそうですが、賢明な何方かに、共感や、何事かを感じ取ったりしていただければ幸いです。先ずは、最初で最後の戦争体験です。

昭和20年7月、間もなく4歳になる私は夜中に起こされて、両親や兄と一緒に屋外に出ました。空襲でした。当時私たちが住んでいたのは、日本海に面した港町でした。空襲は何回かありましたがいづれも港を封鎖するために機雷を撒くためでした。見上げる空では数条の探照灯が上空のあちこちを照らしていました。間なしに、光の1本の動きがピタッと定まり、すぐにもう1条の光もクロス、その十字の光の中をB29が悠々と飛んでいました。実際は焦っていたのかもしれませんが、爆撃のルートに入っていて今更コースを変えるわけにいかなかったのかもしれません。そこへ、光芒の外の暗闇から、オレンジ色の物体が迫り、次の瞬間B29の行足が1瞬落ちたように見え、次の瞬間、左へ傾きスーッと急激に高度がさがりました。高射砲弾の命中です。と見るやあとから照射した探照灯は次の敵を求めてすぐに上空に戻り、最初にB29を補足した探照灯も、落ちる機体を少し追尾した後すぐに上空の索敵に戻りました。ミサイルと違って高射砲の弾はなかなか当たらないものと思われますが、終戦間近で、日本軍の迎撃機もなく、米機は爆撃の精度を上げるべく、高度を下げていたかもしれません。にしても、鮮やかな撃墜でした。地元紙の報道では数機で襲来したB29のうち、1機が撃墜されて機内で数人が亡くなり、パラシュートで脱出した乗組員は全員捕虜になったということです。ともあれ、これが私が目にした、最初で最後の(願わくば)戦闘です。実際に頭上に爆弾が降ってきたわけではないためか、特に憎しみとか恐怖といった思いはなく、只々強烈な記憶として4才児の頭に刻まれ、今に至っています。

この出来事のおよそ1か月後、日本は降伏します。進駐軍の統治下、教育制度や男女同権、普通選挙制など様々な変革が行われました。大人はもちろんですが、子供達の世界でもいろいろ頭の切り替えが必要だったような気がします。折を見てそのあたりのことを思い出して書きたいと思います。

このブログに目を止めていただいて有難うございました。

                           うか8生