うかうか生きて80年

4歳児が見たB29撃墜

昭和16年(1941年)7月の生まれです。今年の夏80歳になります。生まれた年の12月8日、日本軍は「ニイタカヤマノボレ」をゴーサインに真珠湾を攻撃、太平洋戦争に突入しました。私には、何の思想信条もありませんが、この、自らの生まれ年最大の出来事を看板に掲げて、人もすなるブログとやらを、してみんとて始めようかと思うわけです。その他大勢の中に埋もれた人生ではありますが、終戦後の混乱から「経済大国」、そしてコロナ下の今に至る流れの中で心に残る事柄を、あれこれ記してみたいと思うのです。個人的な出来事や思いばかりになりそうですが、賢明な何方かに、共感や、何事かを感じ取ったりしていただければ幸いです。先ずは、最初で最後の戦争体験です。

昭和20年7月、間もなく4歳になる私は夜中に起こされて、両親や兄と一緒に屋外に出ました。空襲でした。当時私たちが住んでいたのは、日本海に面した港町でした。空襲は何回かありましたがいづれも港を封鎖するために機雷を撒くためでした。見上げる空では数条の探照灯が上空のあちこちを照らしていました。間なしに、光の1本の動きがピタッと定まり、すぐにもう1条の光もクロス、その十字の光の中をB29が悠々と飛んでいました。実際は焦っていたのかもしれませんが、爆撃のルートに入っていて今更コースを変えるわけにいかなかったのかもしれません。そこへ、光芒の外の暗闇から、オレンジ色の物体が迫り、次の瞬間B29の行足が1瞬落ちたように見え、次の瞬間、左へ傾きスーッと急激に高度がさがりました。高射砲弾の命中です。と見るやあとから照射した探照灯は次の敵を求めてすぐに上空に戻り、最初にB29を補足した探照灯も、落ちる機体を少し追尾した後すぐに上空の索敵に戻りました。ミサイルと違って高射砲の弾はなかなか当たらないものと思われますが、終戦間近で、日本軍の迎撃機もなく、米機は爆撃の精度を上げるべく、高度を下げていたかもしれません。にしても、鮮やかな撃墜でした。地元紙の報道では数機で襲来したB29のうち、1機が撃墜されて機内で数人が亡くなり、パラシュートで脱出した乗組員は全員捕虜になったということです。ともあれ、これが私が目にした、最初で最後の(願わくば)戦闘です。実際に頭上に爆弾が降ってきたわけではないためか、特に憎しみとか恐怖といった思いはなく、只々強烈な記憶として4才児の頭に刻まれ、今に至っています。

この出来事のおよそ1か月後、日本は降伏します。進駐軍の統治下、教育制度や男女同権、普通選挙制など様々な変革が行われました。大人はもちろんですが、子供達の世界でもいろいろ頭の切り替えが必要だったような気がします。折を見てそのあたりのことを思い出して書きたいと思います。

このブログに目を止めていただいて有難うございました。

                           うか8生